気持ちに従うことが難しい理由

昨日書いたことの続きでもあるけど。今日は長くなりそうだ。

一旦現場を離れるということがいい理由は生理的にもちゃんと裏づけがあるのかもしれない。
別に新しい話ではないけど、歩くことが体にいいという話がある。足の裏を刺激したり汗をかくことが体のみならず頭にもいいという。考えてみれば休憩しに散歩したりでかけることはまさにこれで、体を動かし足を使い、違う鮮度や温度の空気を吸っているわけだから。

今日たまたま立ち読みした本でも似たようなことが書いてあり、逆の例として筆者が見たとある中小企業の様子が書かれていた。

その会社は内勤者は離席禁止で、トイレに行く回数も決められているという。そこの経営者が言うには「自由にさせると30分も40分もトイレに言ってるやつが出てくるんだ。時間で金払ってるのだから勤務時間内は仕事以外のことをしてもらっては困るし、させない」という方針だったらしい。もちろん私語も禁止。

そんな社内の様子は言わずもがな。筆者が言うには、座りっぱなし体の調子が落ちる・縛りだらけで気持ちも萎える→モチベーションの低下→仕事の質の悪化→業績の悪化というまさにデススパイラルな状況にまったく気がついていないとても愚かな例だ、ということだった。

もちろん職種や業種にもよるんだろうけど、やはり働いてるのは生の肉体や精神をもった人間なんだからそのことを忘れてはいけない、ということなのだろう。

しかし、話はそんな単純ではない気がする。
というのは↑の会社の例は行き過ぎとしても、どこかで「そうは言っても」とか「理屈はそうかもしれないけど」と思う気持ちが生まれてしまう。特に年配の人になるほどそういう傾向が強いかもしれない。
それに勤務中に自由に外出するという行為に対しては、例えそこで仕事をしていようとも一般的にはかなり反感を買う行為のようだ。

そこには日本人独特かもしれない、我慢することの美徳みたいな価値観が深く根付いてることに関係してる気がする。

俺が小学生のときだ。遠足があった。確か夏から秋にかけてだったと思う。当然長い距離を歩くとのどが渇く。でもなぜか飲食は休憩時間だけに限られていた。だから先生の目を盗んで水筒の水を飲む子が出てくる。まあ結構みんな飲んでいたのだが。ところが、移動中はおろか休憩時間でも目的地にたどり着くまでは水を一切飲まない子がいた。彼が我慢してたのか要らなかったのかはわからない。ただ、その子の事を先生がすごく褒めたのをはっきりと覚えている。

「○○はほんとに偉いね。水をちゃんっと我慢して」

そういやそのころは体育やクラブ活動でも終わるまでは水なんて飲んじゃいけないという文化があった。

冷静に考えるとまったく意味がわからないわけである。もう現代ではみんなわかってることだろう。そんな状態を続けていたらどんどん体の水分が抜けて血はどろどろになり、いかに体に悪いことになるかということ。

だけれどもそういう「事実」よりも自分の欲求を押し殺すことができる人間は一人前みたいな文化があったんだろう。いや、あるんだろう。ウサギ飛びとかもそうだ。あれはキツイ。でも、鍛えられることよりも体を痛めることのほうが大部分だ。なのに、スポ魂ものでは歯を食いしばってウサギ飛びする主人公たちが美しく描かれていた。

いまやそういうものは科学も発達し、説得力をもったことでだいぶ少なくなった。
しかしそういうスポーツなどは変わっても、仕事や会社となるとどうだろうか。いまだに自己を押し殺し、その場の文化や周囲を優先する人が可愛がられ、自分を解放してる人間は子供じみているという雰囲気の現場が多いんじゃないか。あとは、会社では必ずしも自分の思ったとおりのことができず不自由で我慢している人がいる、だからそんな人の前で俺や君が自分の自由にやっちゃ悪いだろうというような右へ習え文化もあるかもしれない。私は私、あなたはあなた、という考え方は人情味薄いというような価値観を持ってる人は結構いそうだ。

あとはこういうことを俺くらい若い人間が言うと「経験もまだ浅いのにわかったようなことを」を嘲笑するような人もいるなあ 笑

まあつまり会社というところで生き生き働いている人になかなか会えないのはこういう背景があるのかもしれないなとか思った